偉人を教えた先生たち
妹尾義郎は第一高等学校(現在の東大教養部)に優秀な成績で入学したが、その時の校長は新渡戸稲造であった。新渡戸は、新入生が将来大成できるようにこれからの学生生活をどう送っていくべきか講義を行なっている。大きな希望を持っても現実の生活が遊離したものだったら意味はない、とアドバイスは大きな観点から細かい生活指導まで多岐に及んでいる。この指導の中で新渡戸は、日々の成長のためには日記は大きな効用がある、と説いている。妹尾は入学翌年から五十年以上に渡って日記をつけていくが、それはこの師の指導を生涯忠実に実践していった成果だったのである。
忍性は西大寺・叡尊の弟子であった。叡尊は鎌倉初期に戒律を再興して仏教を興隆させた僧である。忍性はその戒律を普及させて癩者を救い病院を作って社会活動に邁進していく。そんな忍性を叡尊は一番弟子として可愛がったが、教学が不得手、と指摘している。後年、忍性は日蓮との法論を避けて批判されるが、その原因はここにあったわけである。弟子の弱点を、師は鋭く見抜いていたのである。
日奥は京都妙覚寺に入って日典の弟子となった。日典は日奥の人柄と純粋な信心を高く評価して後継者としての教育をしていく。それは日蓮の教学や思想はもちろん、細々した生活指導にまで及び、性欲をどう抑えるか、などという具体的な指導もしていった。日奥は指導を学び尽くして跡を継いで住職となるが、師が教学上対立していた僧たちによって流罪される。しかし、これによって祖師日蓮の精神に近づくことができた、と日奥は深く感謝して、あくまで師の教えに忠実に闘っていくのである。
クロポトキンはロシアの大貴族で、多くの農奴を抱えていた。農奴は愚かでひねくれ者と貴族たちは思っていた。しかし、クロポトキンだけは農奴は貴族とまったく同じで優秀な者も人格者も多いと考えていた。なぜ彼だけがそう思ったのか?若くして亡くなったクロポトキンの母は農奴たちを大事にしてたいそう優しく接していた。農奴たちはその恩を返そうと忘れ形見のクロポトキンを大事に育てたのであった。そのため、下卑た振る舞いを控えて高尚な言動を心掛けて彼を育てていったのである。他の貴族たちは農奴に辛く当たっていたために、農奴は努力することもなくなり、性格も捻じ曲がってしまったのであって、同じ人間として温かく接すれば、人格者になり優秀になるものだったわけである。農奴たちは学問を教えたわけではないが、「人はみな同じに尊い」という極めて重要な思想を間接的に教えていたのである。クロポトキンが後年平等思想、無政府主義の思想を抱くのはこうした経験が基礎になっているのは間違いない。